20221227
したいこととすべきことがあって、したいようにしたら良くないことが起こるという恐怖があるから、すべきことを軸にコミュニケーションをとってしまう時がある。そうすると顔色を伺うような怯えた態度になるので、こちらも相手ももう最悪な感じになってしまう。どうすべきかを考えずにどうしたいかでコミュニケーションが取れるのはすごく楽しい。ただ、その楽しさは、相手にコストを押し付けているからではないかという不安もある。したいことをしたいようにしてもいい人間は、性根が正しい人間なので、性根が間違っている人間がしたいようにすればいつかは崩壊する。したいことすべきこと、何事も結局はバランス、いい塩梅なんだよな。
人と話をしたくなっても、特に面白い話題も無いし手ぶらで行くのも申し訳ないなと思ってやめておくことが多い。でも友人との会話って、そういう、美しい茶器を持参して見せることではなく、一緒に粘土遊びをするようなものなんだと思う。コミュニケーションって情報伝達ゲームじゃなく、分有が起こってはじめて分有されるものや分有する者が存在するようなものなんだよな。これを井筒は竹の節、ドゥルーズは卵と言っているが、私は粘土とか小麦粉の生地をイメージすることが多い。やっぱり粘土遊びであって、予め用意できる完成されたものでも、自身が完全にコントロールできるものでもない。自分や相手の力が作用して、我々二者の力だけでなく、媒体の性質、粘土が勝手に乾いていったり自重で形を変えたりするように、私だけでもあなただけでも、私とあなただけでもなく、閉じることの不可能な総体の力で成る。誰とでも楽しくできるわけではないけど、話したかったら手ぶらでふらっと行ってみてもいいのかもしれない。