20221218
北関東はヤンキーみたいな口調、というのは聞いていたし、兄が二人いたから、言葉遣いがあらいなとは思っていた。新潟は、新潟はというか下越は名詞のイントネーションが異なっている以外は特段違いを感じていなかった。免許合宿は北関東で行ったのだが、その時になんだか言葉があらくて、地元だということを実感した。名詞のイントネーション以外にも違いがあって、もしかしたら周りの同級生も私が感じていたのと同様に、別の土地の言葉であることを感じていたかもしれないと思った。金沢はだいぶ関西の言葉に近くて、学内は西日本出身の人が多かったから、関東の言葉を喋っている者はこの土地の人間ではない者という感じがした。その土地の者ではないので当たり前だが。自分の中の関東関西の境目のイメージが結構アバウトで、地図やフォッサマグナや川の名前の分布などを確認すると、金沢は関西だなということが明白だ。新潟の上越、中越、下越という名称が北から下っていなくて、北陸は京都を中心とする文化圏なんだなということを知った。
北関東出身北陸居住なのに何故北関東で自動車免許合宿なのかというと、免許をとれそうな時期と大学の実習で東京内の美術館・ギャラリーをぐるぐるする日程が被っていたからである。いろいろな展示を覚えてたり覚えてなかったりするが、ソフィ・カルの展示が一番印象に残っている。≪限局性激痛≫の展示だった。≪アドレス帳≫も展示されていたような気がしたが、検索しても前者しか出てこないので多分記憶が捏造されている。彼女もかなりぶっちぎりの露出狂タイプの作品を作る。私自身だいぶ露出狂タイプの作品・思考・文章なのだが、好きな作品はそういった生っぽいものよりピカピカの手垢のついていない宝物が多い。ソフィ・カルの制作スタイルやコンセプトはとにかく露出的で生身の人間の話なのだが、媒体の性質もあってアウトプットされる作品の形式自体はかなり清潔だ。私は作品の内容自体よりも、形式の清潔さのほうが面白かった。作品自体にはあまり興味がひかれなかったが、その後の飲み会での会話によって忘れずにたたみこまれている。教授に感想を聞かれて、彼女の形式や並べ方や日付印の押し方など、作品の情動に反して彼女自身の細かい決まりの元に統制されているのが面白かった、日付印はこういうルールで捺されていたと話したら、そこかよと笑われた。同じ研究室の子は、自分の傷と引き換えに人に無理やり傷を暴くやり口はひどいと怒ってた。彼女は穏やかで張り詰めた雰囲気をしていて、常に世界に対して怒っていて、それがすごく美しくて好きだった。作品自体も遠くて清潔で、版画という媒体もその遠さと清潔さに寄与していて、とてもいい作品だった。
人を3秒しか見ていないと言われて、本当にその通りだなと思った。無理だなと思った瞬間に、ポイッと捨ててしまうと。電子媒体のものを保管しておけないという性質もあるが、それ以上に、きちんと人と関係を育んでいくことができていない。これができない限り一生だめでしょう。人との関係や信頼を加点減点式で見ていることを指摘された。そんなことはないと思ったが、人付き合いが円満な人は、多少の失敗があっても見放されない・見放さないという信頼があるらしい。そういう概念がある人からすれば、確かに私の捉え方は加点減点式なのだな。その信頼は、母に対してはあるけど、それが母だけでなく友人たちにもあるという世界の見え方に驚いた。私にはそれが無償の愛のように聞こえる。無償の愛はイデアだからこの世にはないはずなのに。世界への信頼がある人間はこうなっていたのか。私は安穏とした温室でぬっくぬくに育った人間なのに、何故かその部分が上手く育まれていない。今後友人を作り、長く楽しく関係を築いていくには、まず世界への信頼を育まなければならない。理屈はわかってるんだよ。言い訳ばかりしてしまうのが嫌。
母からはかなり無償の愛を受けている。私が何かを間違ったとして、どうしようもない人間だとわかっていても見放されることはないという確信がある。ずっと無償の愛が欲しい…!なのだが、母からの無償の愛があって何故母ではいけないかというと、母は見放しはしないけど抱きしめてはくれないから。
菱田春草…LOVEだ……。屏風は映画っぽいって話をした。木をあんなとこで切る構図あり~!?なんですよね。縦横比の影響力って思ってたより大きいのかもしれない。画角が近くて構図が似てくることだけでなく、屏風は折られて見られるという性質から動きと空間がある。その動きと空間を内包しているという部分も映画っぽい。脳みそがおしまいでもう考えるということができない。眠い。