20221209
人に見せる文章と見せない文章は違うから、この日記は人に見せないということで書き始めたわけだけれども、結局人が見られる場所に出してしまった。基本的に人間は「わかってほしい」と「俺を見ろ」なので、欲望に負けた。研究室で展示を見に行った帰りの車の中で流れてた『わかってほしい』がずっとリフレインし続けているし、もう未来永劫こうなんだな。
他者の視線がある、なくても他者の視線があると思われると、文は、文はというか全ては変わっていく。コミュニケーションが他者によって変質することそのものなのだから当然だし仕方ないのだけれども。他人が見るものだと人に見せない文章よりもなぜか口語に近づく。語りかけになるのだろうか。自分にとっては自明のことで省略してたことも書こうとするからぐんぐん文量が増える。単線的に文を書いたり思考したりする訓練をしていないから、石鹸を泡立てるようにいろんな方向に散らばる。単線的にしか進まない行のある形式、デジタル媒体の文章は大体この形式、は結構奇妙だ。
まるで不特定多数の他者が見うるように書いているけど、あなたしか見ていない想定なんですよね。気持ちの悪い激重ラブレターなんですよ。ラブレターではないよ。人が「献身」という印象を言ってすぐに撤回していたが、良きものを捧ぐというより、郵便ポストに髪の毛とか虫の死骸とかを詰め込んでいるようなものなんですよね。ただ自分勝手に欲望を投棄し続けているだけ。
マウスがもうおしまいになってしまったので新調した。精度が高くてすべる。PCまわりとかデジタルイラストのツールとか、最適化をせずに完全に与えられた初期設定でやってしまう。PCなんてほぼほぼ小学校のコンピューター室状態になっている。モデリング人(もでりんぐんちゅ)として良くないと思う。絶対使いやすいようにいじくりまわしたほうがいいとわかってるんだけど、いじくりまわしたセッティングをもう一回覚えなおす、身体に馴染ませるのが面倒で放置してしまう。電話番号とかも、ちゃんと連絡先登録して名前が出るようにしなければいけないとわかってるのに、数字のままになってる。そういう部分を整理整頓して、無駄なとこで脳の容量を圧迫するのをやめて、他のとこに充ててあげるべきなのに。
平面性と空間の話、大好き。自分の制作でも人の作品でも平面性に興味があってそこばっか見ちゃう。最近、深視力が弱いかもしれんと思った。左右の視力に差があって、今は両目とも悪くなってあまり差はないのだが、一番差があったときは左右で0.5違ってた。記憶方法としても写真的、平面的に記憶している感じがする。暗記するとき、ものを思い出すとき、書類の中の位置や文字のサイズ感をとっかかりにしてる。身体的にも平面を嗜好する眼と脳かと思った。絵画をやる人間として空間認識能力が低いのってだいぶ素質がないが、やっぱり全ては身体から始まるので、この身体固有の作品にはなっていく。奥行きを無視して、光の要素を捨てて、平面と色にエンコードしていく。
VRCは、結局ずっとデスクトップだったから、3Dのパワーを十全には体感してなかったと思う。視覚芸術・空間芸術としてまだ洗練されていなくて、新規性という価値があるものは大量にあったけど、マスターピースはまだ存在しえないジャンルという印象。それは、個々の作り手の技量の話ではなく、VR空間と仮想カメラのレンズ設定と私のPCモニターの問題だな。平面的というか、情報が全て等価にある状態で、散漫だ。全く写真映えしないというか。平面性の高いアニメや漫画は、平面なのだけど、構図や情報の粗密によって視線を誘導することができる。気持ちいい画面を作りやすい。VR空間は、全てのものが等価に置かれていて、どの場所にも立つことができるから、全ての情報が同じ強さで到来する。VRCは視覚情報だけでなく、聴覚情報もそうだなと思った。あらかじめ気持ちのいい一枚画を作るということができない。ここまで書いてて、VR空間はジャンルとしては別に視覚芸術ではないなと思った。絵画批評、映画批評、アニメ批評などのように、VR批評という個別ジャンルで広く語られる、了解が得られるようになっていくのか。